神保町を代表するアダルトショップ「芳賀書店」(東京・千代田区)。芳賀英紀氏はその3代目として経営に奔走しながら、SEXセラピストとしてコーチングやイベント運営にも尽力している。かつては大手音楽事務所に所属して歌手を目指していた一方で、SEXを極めんと一念発起し、約3000人もの女性と性的経験を重ねてきた。同氏の性――すなわち、セックス、持ち前の性分(さが)、そして半生(SAGA)について、「芳賀英紀の性(SAGA)」として全9回にわたり連載する。
(聞き手=杉本憲史、取材日=2021年7月15日)
芳賀英紀の性(SAGA)
【第4回】
自殺願望・ヤンキー生活・歌との出会い「だから童貞だった」
27、8歳にして、すでに2000人もの女性と性的体験を重ねていた芳賀英紀氏。しかしその初体験は18歳と決して早くはなく、それ以前にはキスはおろか手を繋ぐこともすらも、女性としたことはなかったという。中学時代からヤンキーの道に足を踏み入れ、やがて〝歌〟に出合い、彼女どころか男友達もいなかったという芳賀氏の青春時代について聞いた。
(芳賀)中学時代から、ずっと自殺願望がありました。
小学生の頃から、勉強やスポーツでどんなに頑張って良い成績をとっても、「芳賀書店のボンボンだから」という評価がついてまわって、僕自身を見てもらえない。
両親と一緒にいるときは満面の笑みで両親を褒めたたえる大人が、両親が離席したとたんに手の平を返したように両親の悪口を言う様も見てきました。子どもだからわからないだろうと思われていたんでしょうね。でも、僕の心はすごく傷ついた。「大人って、なんて汚いんだろう」って。
そういう体験が重なり、中学時代に自殺願望として表出したんです。
こうした僕のバックグラウンドを抜きにしても、中学生って生産性のあることができないじゃないですか。バイトの面接を受けに行って、「高校生じゃないと駄目だよ」と落ちたことがあるんです。そのとき、「ああ、中学生では、金を稼ぐことが社会の構造上できないのか。中学生では、どこに行っても生きていけないのか」と感じました。
こうしたフラストレーションをスポーツなんかで発散できればよかったんでしょうけど、僕は小5で溶連菌感染によるリウマチ熱という難病を患ったせいで、スポーツに本気で取り組むことはできなかったんです。
で、アウトプットできるものが暴力しかなくて、ヤンキーになってしまった。とにかくエラーを起こさないことを第一に考えるような学校の教育にも疑問を感じて、自分のために暴れていたんです。でも、結局それにも矛盾を感じていて。
中2のときに、「自分の気持ちを伝えたい! 知ってほしい!」という強い衝動から、両親、クラスメイト、教師、世の中に宛てた4つの遺書を書いたんです。僕が飛び降り自殺をすることで、これらの遺書がそれぞれの宛名のところにいくのかな、それが発信になるかな、なんて考えながら……。結局、この自殺願望は33歳くらいまで続きました。
ちょうど中2くらいからカラオケボックスに通い始めて、同級生に歌を褒められて調子に乗ってたんです。それで、歌を仕事にできれば、モテて金も入るから良いな、なんて思うようになりました。
生きる意味がわからなくてヤンキーになっていたので、何か生産性のあることをしたいと思い、本屋で「ケイコとマナブ」を買ってきたんです。お稽古ごとや資格学校の情報誌です。
「ケイコとマナブ」を見たら自宅の近くにボイストレーニングのスタジオがあるとわかり、さっそく行ってみました。そしたら、女性の先生に「鼻歌にもなってない」と言われ、ブッチーンときて通い始めたんです。「やってやろうじゃねえか」っていうヤンキー精神ですよね。
後でわかったんですけど、その人は大手レコード会社でボイトレの先生をしている方だった。誰でも知っている超有名歌手を見出したような人です。一般の人にも稽古をつけていたんです。
中学時代、成績は良くて、模試で70以上の偏差値をとることもありました。玉川聖学院高校(東京・世田谷区)に行きたくて、受験しました。落ちるはずがないと思っていたら、落ちたんです。その理由はおそらく、父に前科があったことと、欠席日数が年間20日くらいと多かったこと。欠席が多かったのは、リウマチ熱のためです。
それで、2次募集で医者の診断書をつけて受験したら、全部受かった。そのうちの1つである、日本大学櫻丘高等学校(同・世田谷区)に進学しました。
でも、本当に行きたかった学校ではなかったので、入学式が終わって教室に入るやいなや、もうこんな感じ(写真)だったんです。それが印象的だったらしく、仲間になったクラスメイト2人はどっちもヤンキーでした。
その仲間が、「この学校シメようぜ」なんて言い出したんです。ただ、僕はそのとき、すでに歌のほうに意識が行っていたので、「なんでそんなことしなくちゃいけないの?」と。別にヤンキーらしいことをしたいわけでもないし。
それで気持ちが萎えてしまって、「お前バカなんじゃないの? お前みたいな仲間はいらねえよ」とタイマン張って、滅茶苦茶にやっつけたら、もう1人の奴もビビッて離れていっちゃって、友達がいなくなっちゃった(笑)。
その後の学校生活は、音楽のことを考えてるか、歌詞を書くか、寝てるか、漫画を読むか。それだけ。
とくに漫画はよく読みました。ルーティンにしていたのが、月曜日が「週刊少年ジャンプ」、火曜日が「漫画サンデー」、水曜日が「週刊少年マガジン」、木曜日が「週刊少年チャンピオン」、金曜日が「週刊漫画ゴラク」(笑)。
ボイトレスタジオのほうは真面目に通い続けていました。そうしたら僕の本気が伝わったのか、高2のときに、先生がいきなり「実は私ね……」と正体を明かしてきて、「面接しない?」と。
それで、いきなりレコード会社の本社で、社長と先生、もうお一方を加えた3対1の面接をすることになったんです。
面接が始まって、普通に世間話をしていたら、最後に「シャウトしてみようか」と言われました。とっさのことだったので、「やっべー!」と固まっちゃって。
「3秒下さい」と言って、心の中で「3……2……1……」と数え、「あーっ!」って叫んだら、「はい合格」みたいな。それで、特待生扱いで入れて頂きました。
その後は、仮歌の仕事や、ライブハウスやクラブで歌ったりして、月に20~30万円頂けるようになりました。新人なので、歌うだけじゃなくて機材まわりのことまで全部やって。
そのうちに音楽がどんどん面白くなってきて、これを極めたいという気持ちが出てきました。本当に真剣にやるなら365日・24時間やらないといけないと考えるようになり、それを実践するようになりました。
朝5時に起きて10キロ走って、筋トレして。常にカセットレコーダーを持ち歩いて、メロディが降ってきたらその場で録音するし、歌詞が降ってきたらメモを取る。渋谷のスクランブル交差点にいても、人の足音のリズムを拾うことを意識していたり――。
ある日、ボイトレをしていたら、自分の声で自分が鳥肌が立つことがありました。そういう音を出せるようになる瞬間があったんです。これはもうイケるという確信がありました。
友達が路上で歌うのに参加したら、がっつり人が集まって一晩で10万円くらい稼げたりして。「あ、〝売れる〟ってこんな感じなのね」と。
まあ、売れたいということはあまり頭になくて、とにかく求める音を出したいという思いでした。だからバンドメンバーにもうるさくダメ出ししまくったりして。
そうこうするうちにメジャーデビューの話が来て、売り出し方を聞いたら気に入らない感じだったので断り、次は演歌をやれと言われてそれも断り……。でも、当時は自信があったので、これだけ歌が上手ければまたデビューの話が来ると思っていました。
こんな生活を送っていたのに加えて、学校では素行も相変わらず悪かったし、出席日数も足りなかったしで、結局留年してしまいました。僕は、〝高2〟を2回やってるんです。
――そんな高校生活だから、男女交際がまったくなかった、ってことですよね。
あーごめんね! そういう話だったね。
――3Pで初体験を迎えるまで、どうして女性との触れ合いがなかったのか、というのが当初の質問でした(笑)。
■芳賀英紀(はが・ひでのり)
1981年、東京生まれ。神保町のアダルトショップ「芳賀書店」三代目。SEXセラピストとしてコーチングや講演活動を行い、フェチズム文化維持向上委員会も運営する。連載、執筆多数。Twitter Facebook
■杉本憲史(すぎもと・のりひと)
1986年、東京生まれ。埼玉育ち。ウェブメディア「Tranquilized Magazine」編集者、出版業界紙「新文化」記者。編著書にディスクガイド『Vintage and Evil』(オルタナパブリッシング)がある。NightwingsやWitchslaughtでバンド活動。Twitter Facebook
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